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安全保障の要としての靖国神社

 今月、届いた「靖国神社社報『靖國』」で、遠藤浩一氏が靖國神社を安全保障の視点で取り上げている。
 
 日米同盟については、当然必要としながらも、『他国の有権者に自国の命運を委ねるのは好ましくないといふより、狂気の沙汰である。』と言う。
 どういう事か?『米国のアジア政策は、戦前から戦中、今日にいたるまで、実は、一貫して場当たり的である。政権が変はれば猫の日のやうに変化するし、同一政権でも選挙でひとたび有権者から「ノー」と突き付けられたならば軌道修正を余儀なくされる。米国が巨大な大衆民主主義国家であり続ける限り、その東アジア政策や安全保障政策が大きく動揺することを、同盟国としても織り込んでおいたはうがいい。』と言うことだ。
 そして、その大衆とは、『何といつても目先の欲望の充足を大事中の大事と思ふ我々大衆は、キケンなこと、キツイこと、キタナイことは他人任せにしたいと願ふから、″仲よし”姿勢でなんとかできるのなら、それでいいぢやないかといふことに、当然なる。』と言うわけである。
 
 国防に於いて、
 『同盟といふものは安全保障政策の補助機能であつて、主体はあくまでも国防力である。右とか左とか、好きだとか嫌ひだとかの問題ではない。独立主権国家を維持するための、それが大前提(常識)といはなければならない。』と、至極当然の事を仰っている訳だが、どう靖國神社と繋がるのか?
 
 『わが自衝隊は今日、世界有数の精鋭な軍隊としての評価を得てゐる。規模ではなくその質に世界中が注目してゐる。なぜか。わが国には辛うじて国家の生存本能といふものが残つてゐるからである。それは歴史的空間の中で育まれてきたがゆゑに強靭で、大衆民主、国民主権主義、平和主義と言った軛をかけられても、国家を守るために黙々と機能し続けてゐる。その生存本能を支へてきたのが、神道の社としての靖國神社なのである。
 英霊の追悼は国家の生存本能にねざしたものであり、国防の基本である。それは神道といふ歴史的、伝統的な宗教空間の中で行はれてこそ、意義がある。自国を一方的に断罪する歴史観に阿り、無宗教の「平和祈念」にすり替へて有名無実化する企てが実現したならば、あるいは内閣総理大臣が外国の圧力に屈して参拝を中断したならば、国家の防衛は骨抜きになつてしまふ。参拝の有無を曖昧にすることは戦略でも何でもない、堂々と参拝することが国防上肝要なのである。日本国のトップが国家と国民を代表して靖國神社に眠る英霊にぬかづくことは、日本人の宗教伝統の体現であるとともに、国防上不可欠の行為である
。』
 
 私は、「国防力」を考える上で、この『国防上不可欠の行為』は特に賛同する。
 遠藤氏の言わんとする事とは多少意味合いが違うかも知れないが、国を護る軍隊の士気の問題からである。


 私の持っているCDの中に『艦船勤務』と言う歌がある。
 その2節、
 ♪
  如何なる堅艦快艇も 人の力に依りてこそ
  其の精鋭を保ちつつ 強敵風波に当たりうれ

 ♪
 如何に近代の戦争が、ボタンひとつで行われようと、前線にある兵隊は命懸けで在ることに代わりはない。
 その兵隊が、命懸けで護ろうとする国がそれに報いてくれないとすれば、士気はいかならん!
 兵隊が殉職した場合、英霊として靖國神社に祭られ、国が、国民(くにたみ)が永久く慰霊を行う事は当然ではないのか?
 宗教の問題があるという。
 私の思う宗教とは、戦後ローマ法王の使者が、マッカーサーの問いに対し「靖國神社を焼き払うべきではない」と説いた様に寛容な物だと思う。
 神道は特に寛容だと思う。
 我が実家にも「神棚」と「仏壇」は同居しているし、「神前結婚式」で「浄土真宗」の葬式である。
 仏教徒の、或いはキリスト教徒の兵隊が殉職した場合、英霊として靖國神社に祭られ、国が、国民(くにたみ)が永久く慰霊を行うことは在ってはならないのだろうか?


 また、歌で申し訳ないが、『九段の母』という歌の3節にはこんな歌詞がある。
 ♪
  両手あわせて ひざまづき おがむはずみの おねんぶつ
  はっと気付いて うろたえました せがれゆるせよ 田舎もの

 ♪
 英霊となった息子に会いに靖國神社に来た母親が、思わず念仏を唱えてしまったと言う物である。
 息子は喜ばないのだろうか?
 私は、母親の気持ちは十分に伝わると思うし、母親が宮司に追い返される事もあり得ないであろう。
 それが『靖國神社』と思っている。
 
 
 以下には、遠藤氏の投稿全文を引用しておくので、ご参照頂ければ幸いである。
 
 _/_/_/_/_/▼靖国神社社報『靖國』より引用▼_/_/_/_/_/
 
安全保障の要としての靖国神社


  遠 藤 浩 一
 (評論家・拓殖東大学日本文化研究所客員教授)


 いかなる協議が行はれ、いかなる結論にいたつたのか、その詳細は未だ不明だが、ヒル米国務次官補と金桂寛北朝鮮外務次官による米朝直接交渉、金次官の満足気な表情、その直後から繰り広げられた海外メディアによる「米金融制裁凍結解除」報道、そして「圧力より対話」の姿勢を打ち出したブッシュ米大統領の一般教書演説---といふ推移を見るかぎり、米国が対北朝鮮政策(それは対テロ政策そのものを意味する)を転換したことは疑ひなく、気紛れな独裁者が国際社会の反対を押し切つて核開発を強行し、そのことを桂子として交渉を有利に進めよスノといふやり口(「弱者の洞喝」)に対して、米国が妥協したことを意味する。
 要するに、金正日は″ゴネ得″を獲得しつつあるといふことである。米国の方針転換は、五十七年前の「アチソン声明」と同様、負の効果を発揮する可能性が高い。一九五〇(昭和二十五)年一月十二日、アチソン米国務長官は、ワシントンのナショナル・プレスクラブで演説し、米国の西太平洋防衝戟はアリューシャンから日本本土、沖縄を経てフィリピンにいたるラインであリ、それ以外の地域については「攻撃を受けた国民の抵抗」と「国連憲章のもとにおける文明世界の援助」に期待すると発言、台湾と韓国を防衛線から外すことを示唆した。
 この発言が朝鮮戦争(=共産主義勢力の南下作戦)の誘発要因になつたことは、それまで金日成の暴走を宥め抑へる側だつたスターリンが、「アチソン声明」後、一転して推進に転じたといふ歴史的事実によつて、明確に示されてゐる。金日成の南進に対して当初スターリンが消極的だつたのは、「攻撃を隻けた国民の抵抗」能力すなはち韓国軍の実力及び米国の出方を読み切れなかつたからである。米国務長官の発言は共産陣営の懸念材料を払拭した。スターリンも金日成も、そして毛沢東も「アメリカ政府の″韓国放棄政策”と韓国軍の装備の劣悪なる状況を分析した結果『勝算あり!』と考へた」(ウィロビーGHQ参謀第二部長)のである。
 さてブッシュ政権の政策変更によつて金正日は国際社会への同調に転ずるのだらうか、それとも父同様、図に乗つてますます暴走に拍車をかけるのだらうか。これまでの経緯を見る限り、北の独裁者が大人しくなるとは考へにくく、ますます増長すると見るはうが自然である。九三/九四年危横の際は、クリントン政権の宥和政策によつて危機を脱したかに見えた。が、そこで得た援助と猶予を活用して、北は着々と接及びミサイルの開発を進め、今日の危機へといたつてゐる。
 クリントン政権の背信的妥協を、多くの極秘外交文書を駆使して告発したビル・ガーツ(「ワシントン・タイムズ」記者)は、クリントン大統領が残した″業績″は「アメリカの軍備を深刻な状態にまで縮小させ、自己の利益を図るために強圧的な外敵に無節操に譲歩した国策である」(『誰がテポドン開発を許したかLクリントンのもう一つの″失敗″』仙名紀訳)と雑誌してゐるが、いまブッシュ政権もクリントンと同じ轍を踏みつつある。
 米国のアジア政策は、戦前から戦中、今日にいたるまで、実は、一貫して場当たり的である。政権が変はれば猫の日のやうに変化するし、同一政権でも選挙でひとたび有権者から「ノー」と突き付けられたならば軌道修正を余儀なくされる。米国が巨大な大衆民主主義国家であり続ける限り、その東アジア政策や安全保障政策が大きく動揺することを、同盟国としても織り込んでおいたはうがいい。ましてや、あのヒラリー・クリントンが次期大統領の有力候補の一人に数えられるといふ状況である(筆者は、いくら知名度が高くとも、左翼色を払拭しない限りヒラリー女史は大統領にはなり得ないと見てゐるが……)。
 ガーツ記者は「武力政治に対するクリントンのヒッピー的な″仲よし”姿勢が原因でアメリカは弱体化し、危険で敵対的な世界において無防備な国家になつた」とも言つてゐるが、武力で我を通す勢力に対して″仲よし″姿勢でなんとかできると考へるのはヒッピーだけではない。便宜主義の虜になつた官僚だつてさうだし、何といつても目先の欲望の充足を大事中の大事と思ふ我々大衆は、キケンなこと、キツイこと、キタナイことは他人任せにしたいと願ふから、″仲よし”姿勢でなんとかできるのなら、それでいいぢやないかといふことに、当然なる。その大衆が、民主主義国家にあつては主権者すなはち最高の意思決定者なのである。
 独裁者や全体主義国は、そこを衝いてくる。
 直視すべきは、わが日本も米国も、二十一世紀最大規模の大衆民主主義国であるといふ事実である。もとより日米ともに民主主義を捨てるといふ選択肢はありえないだらうから、両国とも大衆が安全保障の当事者であり意思決定者であるといふ仕組みはこのまま続く。そのとき、自国の安全保障をどうするかといふ問題が、いま、日米ともに突き付けられてゐるのである。もちろん、ともに自由民主主義体制の日米両国が同盟国として安全保障機能を担保しあふといふ仕組みは蓋然性、有効性ともに高く、それだけに重要である。日本にとつて米国は、そして米国にとつての日本は、それぞれ同盟国として(中国やロシアと比較するまでもなく)最もリスクが低く、信頼できる相手である。したがつてこの同盟は歴史上の二国間同盟の中でもずば抜けた安定性を保つてゐる(そこには別の問題が潜んでゐるのだが)。日米安保体制をより緊密化する必要はあつても、弱体化させたり消滅させていいといふ理由はどこにもない。しかしだからといつて、自国の安全保障を日米同盟だけに依存すればいいといふことにはならない。ましてや相手国はわが国同様、民意によつて政策がどのやうにも変更される国なのである。
 他国の有権者に自国の命運を委ねるのは好ましくないといふより、狂気の沙汰である。
 同盟といふものは安全保障政策の補助機能であつて、主体はあくまでも国防力である。右とか左とか、好きだとか嫌ひだとかの問題ではない。独立主権国家を維持するための、それが大前提(常識)といはなければならない。
 ところが戦後のわが国は、その大前提を破壊されたところから始まつてゐる。そこに困難がある。日米ともに大衆民主主義国家であるが、米国はともかくわが国は、その現実に加へてフィクションとしての国民主権主義や欺瞞としての平和主義を絶対的価値として奉る憲法を強要され、いまなほ後生大事に守つてゐる。大衆民主主義、国民主権主義、平和主義といふ三重の拘束の中で国防を構想し、実行せねばならないのが、わが日本国なのである(この点については別冊『正論』第五号の拙稿「国民不在の国防論議」参照)。三重苦に喘ぐ日本の自衛隊は、戦後不当な扱ひを受けてきた。国防論議は神学論争と化し、「自衛隊は軍隊にあらず」といふ奇妙奇天烈な議論が左翼のみならず保守の間でも罷り通つてきた。にもかかはらず、わが自衝隊は今日、世界有数の精鋭な軍隊としての評価を得てゐる。規模ではなくその質に世界中が注目してゐる。
 なぜか。
 わが国には辛うじて国家の生存本能といふものが残つてゐるからである。それは歴史的空間の中で育まれてきたがゆゑに強靭で、大衆民主、国民主権主義、平和主義と言った軛をかけられても、国家を守るために黙々と機能し続けてゐる。その生存本能を支へてきたのが、神道の社としての靖國神社なのである。
 英霊の追悼は国家の生存本能にねざしたものであり、国防の基本である。それは神道といふ歴史的、伝統的な宗教空間の中で行はれてこそ、意義がある。自国を一方的に断罪する歴史観に阿り、無宗教の「平和祈念」にすり替へて有名無実化する企てが実現したならば、あるいは内閣総理大臣が外国の圧力に屈して参拝を中断したならば、国家の防衛は骨抜きになつてしまふ。参拝の有無を曖昧にすることは戦略でも何でもない、堂々と参拝することが国防上肝要なのである。日本国のトップが国家と国民を代表して靖國神社に眠る英霊にぬかづくことは、日本人の宗教伝統の体現であるとともに、国防上不可欠の行為である。
 現在、首相の靖國神社参拝を紡げてゐるものは、現行憲法の政教分離規定及び近隣諸国からの容喙であるが、その憲法の本質は旧連合国による対日軍事措置であつて、そこで蜷局巻く「思想」とは「日本が再び米国の脅威となり又は世界の平和と安全の脅威となることなき様保証すること」(『降伏後に於ける米国の初期の対日方針』「第一部 究極の目的」)にほかならない。日本さへ封じ込めておけば世界は平安であるといふ愚かで歪んだ思想の一環として政教分離が悪用されてゐる。「近隣諸国の反発」なるものは、日本を封じ込める戦後体制の継続こそ自らの利益に適ふと考へる一部の国々の外交政策でしかない。他国が自分の国益をかけて日本に圧力をかけてくるのは、ある意味で当然であらう。中国が自らの覇権主義追求のために靖國神社参拝に反対するのは、実は軍事行為なのである。
 われわれが問はれてゐるのは、わが国自身の対応である。日本は、自らの安全と名誉、国益をかけて、かういつた圧力を無視し、粛々と英霊に対して誠を捧げ続けなければならない。そのとき留意すべきは、米国を敵にしてはならないといふことである。米国に安全保障を全面的に依存するのが不健全ならば、敵を徒に拡大するのはより危険である。敵にしてはならない相手を敵にしてしまつたといふのは、かつて日米がともに犯した過ちであつた。
 靖國神社が歴史的に体現してきたものは、日米が共通の基盤としてゐる自由民主主義体制と決して矛盾しない。
 神道の寛容性は、西洋で長い年月をかけて合理化させてきた自由民主主義思想の先駆的実現である。
 明治以降の近代化の過程で、その国柄を維持しょうとする本能を精神面において支へてきたのは靖國神社であつた。つまりわが国における自由民主主義的な精神性を英霊追悼を通して体現してきたのが靖國神社なのである。だからこそ全体主義国・中国はこれを敵視するわけである。さういつた事どもに関する理解の共有が、日米同盟の基幹となるべきであらう。
 そしてそれこそが気儘な独裁者や覇権全体主義国への抑止力となるのである。


_/_/_/_/_/▲_引用ここまで▲_/_/_/_/_/

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靖国・近代の戦い | コメント(2) | トラックバック(0)2007/03/13(火)14:57

コメント

古本街は神田駅じゃないよ!

 英霊は 此処にありしと 想いたる
 自由を奪う 平和の使者や

 元気な頃は8/15に靖国に行くのが年中行事でしたが、毎年平◎遺族会とトラブルになりました!
 「自分の家族は、こんな所にいないと思う自由が、あると同時にいると思う自由を何故、認めないのですか?」
 自分達に参拝しない自由がある様に参拝をする自由もまたある筈です!
 それと無許可で人の写真を撮るのは、肖像権の侵害に当たると思うのですが、町を歩いていて偶然にテレビに映る事もあるから何の問題もないそうですが、「偶然」と「必然」はやはり「別の話」ではないでしょうか?
 「『九段の母』はインチキな歌だ!自分の子供が死んで神になったと思う親なんて一人もいない!」
 言った方がいますが、当然の如く一人一人に確認を取っていません!
 「『自分の息子は英雄だった!』
 思いたい!
 と言う人が現実にいる事は、確認ずみです!
 「上野より飯田橋の方が近い事も知らないのか?」
 言った人もいますが、だから田舎者と断っているでしょう?

2007/03/14(水)11:20| URL | 鵺娘 #/9u.keZw [ 編集]

>鵺娘さん

コメントありがとうございます。

>英霊は 此処にありしと 想いたる
 自由を奪う 平和の使者や

・まさに、自分たちの自由と権利のみが認められ、他人の権利と自由は認めないのが、俗に言う「平和主義者」ですね。

>元気な頃は8/15に靖国に行くのが年中行事でしたが、毎年平◎遺族会とトラブルになりました!
>「自分の家族は、こんな所にいないと思う自由が、あると同時にいると思う自由を何故、認めないのですか?」
>自分達に参拝しない自由がある様に参拝をする自由もまたある筈です!
・仰るとおり。おまけに人の自由を「邪魔」したり「妨害」する権利も無いはずですよね!

>それと無許可で人の写真を撮るのは、肖像権の侵害に当たると思うのですが、町を歩いていて偶然にテレビに映る事もあるから何の問題もないそうですが、「偶然」と「必然」はやはり「別の話」ではないでしょうか?
・彼らにカメラを向けるとすぐ文句を言ってきますがね。

>「『九段の母』はインチキな歌だ!自分の子供が死んで神になったと思う親なんて一人もいない!」
>言った方がいますが、当然の如く一人一人に確認を取っていません!
>「『自分の息子は英雄だった!』思いたい!」
>と言う人が現実にいる事は、確認ずみです!
・靖国神社に普通の日に行くと、そう言う方(もう息子ではなく祖母が、親がと言う方が多いですが)を見かけます。

>「上野より飯田橋の方が近い事も知らないのか?」
 言った人もいますが、だから田舎者と断っているでしょう?
・当時飯田橋はあったのですか?
 田舎者だから道も迷えば、神社で念仏も唱える。
 しかし、その気持ちを誰が馬鹿に出来ると言うのですか

2007/03/18(日)21:50| URL | tono #vFsRzAws [ 編集]

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