■父の記憶
見送るも行くも別れを知りながら微笑むこころ誰か知るらむ
父の記憶と言っても、他界した父を思い出す話ではありません。
大正15年生まれで、今なお健在の父が、私のやっている活動などを少しづ知って、やっと最近ぽつぽつと話す戦争中の記憶の事です。
父は、高等小学校を出て、勉強して海軍通信学校に入団しました。
当時、海軍は「入団」、陸軍は「入営」と言ったそうです。
「あん時は、俺も一生懸命勉強したなぁ!」
と自慢しておりましたが(笑)、志願して海軍を目指す憂国の士!と思い、志願の理由を問うて見ました。
「そりゃぁ、お前、海軍の制服がかっこ良かったけん・・」(爆)
全く想定外の回答に、ソファから滑り落ちましたよ。
しかし、考えてみれば当時は軍の存在は当然であり、軍人は尊敬される時代です。
貧乏な家で育ち、当時それなりの給料と安定感のある海軍は、就職先としても憧れの的だった様です。
そして、父は海軍鹿屋航空基地で終戦を迎えました。
鹿屋は、あの有名な知覧よりも多くの特攻機が飛び立った基地です。
基本的には、知覧は陸軍、鹿屋は海軍の特攻基地と言う事のようです。
一度思い切って聞いた事があります。
「特攻隊って・・・どんなだった?」
父は、一瞬の間の後話してくれました。
「自分は穴倉の中が仕事場だから、いつも見送った訳じゃないが、あいつら出撃の前の晩は大騒ぎしよったなぁ。」
「で、出撃する時は、飛行機に源頼朝だかなんだかの弁天様の幟を立ててな、笑って行きよった。」
この、幟は、恐らく源頼朝や北条政子が戦いの前に戦勝祈願をしたと言う「旗上拚戝天」と描かれたものでは無いかと思われます。
父が私に嘘を言ってもしょうがないので、この辺りの事は事実だと思います。
「笑って行きよった・・・・」
事実であろうだけに、胸が詰まります。
最近、私の車に乗って買物に行きました。
「海の進軍」と言う軍歌がかかっていましたが、父はなつかしい!と言うと思いきや、
「この歌はなんという歌だ?聞いた事が無い!」
と言いました。
考えてみれば、当時の軍歌は、ある意味「銃後」の方が沢山聞いていたのかも知れません。
兵隊は、各々の基地や部隊、船等の中で歌い継がれた歌は知っていても、その他の軍歌を知る術が無かったのでしょう。
「愛国行進曲は無いのか?」
と言うのでかけると、口ずさんでいました。
「海ゆかばは?」
と言うので、これもかけましたが、
今度は口ずさむ事は無く、
「これを聞くと涙が出る・・」
と言ったきり黙ってしまいました。
父の様に、軍隊に居ながら、戦争で死なずに済んだ人間は、靖國神社や護国神社に祀られる英霊と違って、
「生き残ってしまった者」にしか解らない「何か!」を背負っているように思います。
だから「俺達が代わって日本を再興する」と言う思いがあったように思います。
それが、あの高度経済成長時代を呼んだのではないかとも思います。
情報の溢れる現代では、ややもすると「生き残ってしまった者」は悪者にされる様に感じる言動が目見に付きます。
そんな人達は「生き残ってしまった者」が、靖國神社に参拝するまでには、時間と勇気を必要とした事を知ってもらいたいと思います。
何と言っても、英霊の御霊の重さを、一番良く解っているのは「生き残ってしまった者」なのですから。
今年も、靖國神社、護国神社の「みたままつり」には献灯をしようと思っています。
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